「エヴァンゲリオンTV版-旧劇場版」感想(ネタバレあり考察)

分岐したエンディング。しかし…。

※ジャケット画像はAmazonリンクを使用しています。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」を観てきました。

ではレビューを、と言いたいところですが、さすがに今までの流れを説明しないことには…。

…ということで、「エヴァンゲリオンTV版」と「旧劇場版」から振り返ってみる。

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注:今回の感想はネタバレを含み、なおかつ個人的な感想ですので、よろしくお願いします。

まず、「新世紀エヴァンゲリオン」は1995年から放映されたTVアニメ。

「人類補完計画」や「使徒」など、謎に満ちた設定とクオリティの高い映像で、社会現象になるほどのヒットになったので、詳しい説明は不要でしょう。

ところが、TV版最終2話(第弐拾伍話「終わる世界」最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」)で、エヴァはとんでもない終わり方をしてしまうわけ。

人によっていろいろ解釈はあるだろうが、僕はこれを夢オチ(正確には妄想オチ)と判断せざるを得ない。

つまり、碇シンジと、パンをくわえて走ってくる転校生の綾波レイがぶつかる場面を含めたあの部分のみが現実で、それ以外は碇シンジの妄想。

平凡な中学生、碇シンジは、自分や自分の周りにいる人間を使って、エヴァという物語を妄想していたということ。

これは夢オチであるがゆえに非常に強力で、例えば数あるエヴァの設定の中でも意味の分からない「エヴァに乗れるのは14歳の少年少女である」といったことにすら、シンジが妄想の中で自分を主人公とするべく、無理やり作った設定であるというように説明がついてしまう。

さて、特筆すべきは、この夢オチがハッピーエンドであるという点だ。

シンジは最後に(経過は分からないが)それまでのコミュニケーション不全だった自分の殻を破り、これからは他人と接していこうと決意する。

そして、登場キャラクターたちから、そんな決断に対して「おめでとう」という承認を受けるのだ。

思春期の自意識過剰な状態から一歩踏み出し、他者との関係を学び始める、幸福な成長に向けての萌芽がそこにある。

エヴァは「ヤマアラシのジレンマ」など、作品中でも他者との関わり合い方に関する描写が多く、そういう意味ではこのエンディングも、ある意味エヴァらしいと言える。

しかし、シンジにとってはハッピーエンドであっても、観客にとっては納得のいかない夢オチであることは確かだ。

「新世紀エヴァンゲリオン」は放映終了後も、ビデオ化などによって人気は衰えるどころか加熱する一方で、それを受けて劇場版の制作が決定する。

そして、前述のTV版最終2話をなかったことにして、劇場版として、第25話「Air」第26話「まごころを、君に」が作成された。

ストーリーとしてはTV版の第弐拾四話から分岐して話が続いているので、今回は第壱話~第弐拾四話は碇シンジの妄想ではなく、みんなが観たかった話の続きと真のエンディングが提供されるはずだった。

しかし、途中から雲行きが怪しくなる。

スクリーンには唐突に映画館の観客席の実写映像が流れる。

この映像の意味するところは「鏡」だろうと思う。

実際にスクリーンを鏡にする機能があればそれを使用しただろうが、映画館のスクリーンにそんな機能はないために、事前に実写映像を撮影したのだろう。

これはオマエらに向けたメッセージだとでも言わんばかりのカットだ。

そして到達したエンディングは、地球上にただ二人残されたシンジとアスカ。

最後にアスカの口から放たれる「キモチワルイ」というメッセージ。

それは、たとえこの地球に二人きりになっても、新しいアダムとイブになることなどかなわず、(オマエらは)拒絶されるんだというオタク(コミュニケーション不全者)批判であった。

この頃の庵野秀明監督のインタビューにはオタク批判が多かったように記憶していて、このエンディングにも、あぁそういうことね、と思った。

残念ながらエヴァンゲリオンのストーリーは完結せず、途中から「オタクが好きそうなコンテンツによるオタク批判」という意地の悪い結末に堕したのであった。

この分岐した2つのエンディングにより、僕の中でエヴァに結論が出た。

おそらく大風呂敷を広げたものの、難解な設定や伏線に対する答えは最初からなかったのであろう、と。

その後、エヴァは漫画、ゲーム、など派生のコンテンツを生み出すことになるが、僕はそれらを追いかけることは一切なかった。

あ、ただ勘違いされると困るので断っておくと、これによってエヴァが嫌いになったというわけではない。

録画していたビデオテープや映画のパンフなどを、顔を真っ赤にしてぶっ壊したりとか、そういうのではない(笑)

オチはともかくとして、タイポグラフィやデザイン周りまで含めたエヴァの完成度は非常に高く、ポップカルチャーの文脈で語ることも出来る作品だったのだ。

※ところが、新劇場版を観て、上記の感想が間違いであったことを思い知らされることになる「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序:破」感想 に続く…)