物語の盲点に切り込む鮮烈な映像
その予告編を観た瞬間、長年映画に親しんだ嗅覚が、これはスゴイ作品ではないか!と告げていた映画「インセプション」
観てきました!
これは久しぶりに、観る前からめちゃくちゃ楽しみにしていた映画だった。
「インセプション」の舞台設定:夢の中
映画「インセプション」の舞台は何と「夢の中」。
他人の夢の中に入り込み、そこからアイデアを盗む。
という奇想天外なアイデアのストーリーである。
「夢オチ」という禁じ手と「夢」を扱う難しさ
とはいえ、「夢」というのは物語にとって非常に危険なものだ。
それは「夢オチ」という禁じ手のせいだ。
物語とは、その作者が作った設定と伏線というルールの上に成り立っている。
「夢オチ」とは、最後の結末が「いろいろあったけど全部夢でした」というもので、設定も伏線も無視した着地であるために、その物語を楽しんでいた受け手を大いに裏切ることになる。
それでも、「夢オチ」で着地してしまった以上、物語の受け手が何も言えないのは、我々が「夢」について経験的に認識している点があるからだ。
それは、
「夢の中では何でもあり」
ということである。
そのため、「夢」を扱った物語は、普通はファンタジーやオカルトなどにカテゴライズされてしまうことが多い。
もともと何でもありなジャンルの方が、「夢」との親和性が高いからだと思われる。
「インセプション」における「夢」のルール
しかし「インセプション」はジャンル分けするならば、SF/アクションだ。
そこに曖昧な要素はない。
通常、舞台を「夢の中」にしてしまうと、どうせ何でもありなんでしょ、と観客に思われてしまうばかりか、「夢オチ」を使ってしまえば、総スカンを食らうことになる。
そもそも物語の作り手にとって、「夢」とは、出来れば使いたくないものだと思う。
しかし、「インセプション」は「夢の中のルール」を設定した。
「夢の中には階層があり、時間の流れが異なる」
「夢から脱出する方法がある」
「夢の中にいるのか現実世界にいるのか判断するにはアイテムを使う」
明確なルールがあり、何でもありのご都合主義はない。
驚きの映像表現とクリストファー・ノーラン監督の合理性
そして、予告編で既に我々を驚かせている映像の数々。
「夢の中」を「現実ではあり得ない驚きの映像」で鮮烈に表現しているのだ。
映像に関して言及すると、最近「どうせ全部CGでしょ」とか言い出しちゃう人がいるが、僕は映像制作について、そういう意見に違和感を覚える。
なぜかというと、映画で見せられる映像は、結果が全てであって、それがどうやって作られたかなんて基本的にはどうでもいいことだと思うのだ。
(僕の場合は、技術的な部分にも非常に興味あるけれど、それはまた別の問題だ)
CGを使わないことを目指しました、とか訳の分からないことを言って、しょぼい映像を見せてくる監督がたまにいるのだが、全く意味が分からない。
合理的に手法を選択すれば良いだけじゃないのか?
実際、クリストファー・ノーラン監督の前作「ダークナイト」で分かったことであるが、彼の映像制作は非常に合理的。
「ダークナイト」で驚かされるトレーラー前転のシークエンス。
誰もがCGだと思いきや、実際にトレーラーを前転させているのである。
「CGでしか表現できない部分はCGで」描き、「実写のほうが迫力が出るなら実写で」表現する。
そこに最適な方法を取捨選択している。
そのため、出来上がって来る映像はどれも鮮烈で、素晴らしい。
特に今回の「インセプション」は、我々がこれまで見たこともないような映像のオンパレードだ。
鮮烈な映像、緻密なストーリー、そして完璧な仕掛け
映像だけで至福の瞬間の連続であるが、ストーリーも非常に面白い。
技術的なことを言えば、構成も伏線の張り方も素晴らしい。
そして、ラストカットの切り方や、エンドロールの最後に流れる曲の仕掛けまで、最後の最後までうならされる出来で完璧!

「良し 計画通りだ」



